茶道の流派とは?初心者向けに種類・特徴などをご紹介
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茶道とは、日本伝統の様式で「茶を点(た)て、茶を振る舞う」行為であり、芸道です。
しかし、一言で「茶道」と言ってもさまざまな流派があり、特徴を持っています。
今回は、茶道について詳しくない初心者向けに、流派の種類や特徴についてわかりやすくまとめました。
目次
茶道の流派について
流派とは、何かひとつの同じものに対し、それぞれ異なった文化や流儀を持って継承している集団を指します。
茶道の場合、「お茶を点てる」ことは同じですが、流派によって作法や着物、方向性などに違いが表れます。
茶道に限らず、華道や書道、武道全般に流派はあります。
茶道にはさまざまな流派がありますが、その始祖は千利休(せんのりきゅう)であり、安土桃山時代に完成されたものです。
当時は、始祖である千利休の流派ひとつのみでしたが、4代目から流派が分かれ、時代が進むにつれて分裂を繰り返し、現代のように複数の流派が存在するようになりました。
茶道の流派の種類
茶道の流派は、知らない方からすると「似たような名前が多くてややこしい。何が違うの?」と疑問に思われやすいのですが、系統に沿って見ていくと理解しやすいです。
流派分裂で始まったのは、三千家(さんせんけ)と呼ばれる3つの流派です。
千利休のひ孫たちが作った、表千家(おもてせんけ)、裏千家(うらせんけ)、武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)の3つを総称して『三千家』と呼びます。
千利休の孫になる千宗旦(せんそうたん)には4人の息子がいて、三男の千宗左(せんそうさ)が後継者となって表千家ができました。
四男の千宗室(せんそうしつ)は、兄の千宗左の裏に庵を建てたことで、「表」の宗左に対して「裏」の宗室として、裏千家が始まったとされています。
また、次男の千宗守(せんそうしゅ)も庵を建て、武者小路千家となっていきます。
三千家1.表千家(おもてせんけ)
<画像引用:表千家からのご案内>
三千家のひとつ、表千家(おもてせんけ)からは、さらにいくつかの流派でわかれます。
表千家の中でメジャーである『表千家流』と、『江戸千家流(川上家)』と『堀内流(長生庵)』です。
表千家の流派:表千家流
表千家流は、全体的に「保守派」と言われる特徴があります。
たとえば、着物は華やかなものは避けて、格調高く、比較的地味なものを選びます。
他には、男女の座り方にも特徴があります。
- 男性が座るときは、安定する程度に膝を開ける
- 女性が座るときは、”こぶし”ひとつ分あけて座る
お抹茶もあまり泡立てないようにしたり、原点からのアレンジはあまりされていなかったりと、伝統を重視する傾向があります。
表千家の流派:江戸千家流(川上家)
江戸千家流は、表千家流が京都から始まったものに対し、江戸で始まったことからの名称です。
流派を始めたのは川上不白(かわかみふはく)で、表千家の七代目に弟子入りした人物です。
江戸の町民・庶民に「茶の湯の文化」を広げたことで親しまれています。
表千家の流派:堀内流(長生庵)
堀内流は、堀内仙鶴(ほりうちせんかく)が開いた流派です。
堀内仙鶴は、茶人(ちゃじん=茶道に通じた人)としてだけでなく、俳人(はいじん=俳句を作る人)でもあり、文化への貢献者として知られています。
三千家2.裏千家(うらせんけ)
<画像引用:裏千家今日庵>
裏千家は、表千家と同じく、派生した2つの流派が続いており、合計3つの流派があります。
裏千家の中でメジャーとなるのは『裏千家流』で、『速水流』と『大日本茶道学会』が派生の流派となります。
裏千家の流派:裏千家流
裏千家の特徴は、現在の茶道人口の中で一番多いとされている点です。
茶道人口は、約200万人から350万人ですが、約半数が裏千家と言われています。
裏千家の人が多い理由には、カルチャスクールや学校の受業に取り入れられているなど、門戸が開かれていることが挙げられます。
ただし、裏千家の人が多すぎて正確な人数は把握できていないのが実情です。
流派の人口を確認するにはお免状などでカウントされますが、学校の茶道部のようにお免状の発行が無い場合だと、裏千家で学んでいても人口としては把握できないのです。
他の特徴としては、次のものが挙げられます。
- 着物は華やかなものを好む
- お抹茶はふわふわに泡立てる
- 座り方は足を開き気味で(男性は”こぶし”ふたつ分、女性はひとつ分)
裏千家の流派:速水(はやみ)流
速水流は、裏千家の八代目に弟子入りした速水宗達(はやみそうたつ)によって始められました。
京都で公家文化(くげぶんか/くげ=朝廷に仕える貴族・上級官人の総称)を取り入れた、というのが特徴です。
茶杓(ちゃしゃく)を使わないお点前があるなど、他の流派とは異なる伝統を持っています。
裏千家の流派:大日本茶道学会
大日本茶道学会は、特に開かれた流派で知られています。
「他の流派とも積極的に交流を持ち、他流派の長所を取り入れていく」という姿勢です。
一般的に、流派の代表は「家元」と呼ばれますが、大日本茶道学会では「会長」と呼ばれます。
三千家3.武者小路千家(むしゃのこうじせんけ)
<画像引用:武者小路千家官休庵>
武者小路千家は、表千家や裏千家と比べ、小規模な流派です。
裏千家よりは表千家に近く、お抹茶はあまり泡立てず、華やかな着物は避け、お点前も伝統を重視するなどの傾向があります。
座り方も、女性は足を閉じて、男性は膝を”こぶし”ひとつ分開けるなど、三千家の中でももっとも保守的だとも言われます。
小規模な流派ですが、茶道の「わび・さび」に重きを置きます。
わびさびは、日本の美意識のひとつで、「人の世のはかなさ、無常であることを美しいと感じる」という価値観です。
三千家以外から始まった流派もある
茶道の流派には、三選家以外から始まった流派も多数あります。
茶道を始めた千利休は、1591年に豊臣秀吉に切腹を命じられ、70歳でこの世を去っていますが、その頃にはすでに武士階級にも茶道が文化や作法として根付いていました。
武士たちの茶道は、江戸時代以降には「武家茶道」や「大名茶」と呼ばれ、現代にもさまざまな流派が続いています。
武家茶道は、武士が中心となったことから、各藩や各大名によってそれぞれの流儀が定められ、ひとつの領国内でのみ普及したものもあります。
明治政府による廃藩置県以降、武家社会や制度が崩壊するのにともない、消滅していった武家茶道の流儀もあるとされています。
武家茶道の流れを現代まで続けている各流派は、三千家とはまた別の意味で、日本の伝統を受け継ぐ貴重な存在とも言えます。
三千家以外の流派1.藪内(やぶのうち)流(燕庵)
藪内流は、薮内剣仲(やぶのうちけんちゅう)は安土桃山から江戸初期の茶人で、堺の茶匠藪内宗把(やぶのうちそうは)の養子となり、千利休にも学びました。
薮内剣仲は、道具の鑑識眼に優れていたそうで、利休から道具の選定を依頼されるほど、高く評価されていました。
藪内流は、千利休の茶道にある「わび・さび」に武家茶道の文化を取り入れているのが特徴です。
三千家以外の流派2.遠州(えんしゅう)流
遠州流は、小堀遠州(こぼり えんしゅう)が始めた流派です。
「小堀遠州」は一般で通用する後年の名乗りであり、大名としては小堀政一(こぼり まさかず)として備中松山城主や近江国小室藩主を務めました。
遠州流は、質素で内省的な「わび・さび」の茶道に、遠州独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風が特徴です。
武家らしい華やかさよりも、茶の湯の心を用いた「自然な雅やかさ」があるとされています。
また、小堀遠州は生け花の流祖としても知られています。(生け花では、「華道遠州」(かどうえんしゅう)と呼ばれています)
三千家以外の流派3.石州(せきしゅう)流系
石州派は、片桐石州(かたぎりせきしゅう)が開いた流派です。
片桐石州は、江戸時代の前期の茶人であり、大名としては片桐貞昌(かたぎり さだまさ)の名で大和小泉藩(奈良県)の藩主として知られています。
石州派は地域によってさまざまな分類がされ、それぞれに特徴があります。
- 藤林(ふじばやし)流
藤林流は、片桐氏の家臣であった藤林 宗源(ふじばやしそうげん)が始めた流派です。
石州流口伝書に基づく秘伝書であり、藤林流の基本書とされる「和泉草」や「藻塩草(品川物語)」など著書が残されています。
- 鎮信(ちんしん)流
鎮信流派、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名である、松浦鎮信(まつら しげのぶ)が始めた流派です。
江戸時代に、藤林流の藤林宗源から茶道を伝承しています。
- 怡渓(いけい)派
怡渓派は、江戸中期の禅僧・茶人である怡渓宗悦(いけいそうえつ)が始めた流派です。
石州流を学んだのち、怡渓派を開きました。
僧としては、江戸品川の東海寺高源院の開祖としても知られています。
- 清水(しみず)派
清水流は、江戸前期の茶人である清水道閑(しみずどうかん)が始めた流派です。
遠州流の小堀遠州に学び、遠州の推挙で伊達政宗に五百石をもって茶頭(さどう=貴人に仕えて茶の師匠を司る)に抱えられました。
仙台の風呂屋町に住んだことから「風呂道閑」とも呼ばれます。
- 野村(のむら)派
野村派は、野村宗覚(のむらそうかく)が始めた流派です。
野村宗覚は利休の門下であり、孫の休成(きゅうせい)が石州から茶道を伝承して、石州派のひとつとなりました。
- 大口(おおぐち)派
大口派は、江戸時代中期の茶人である大口樵翁(おおぐちしょうおう)が始めた流派です。
石州流を学んだのち破門になって、独立して大口派を開きました。
- 新石州(しんせきしゅう)流
新石州派は、石州派・片桐家の8代藩主である片桐貞信(かたぎりさだのぶ)が、江戸千家の茶風を加えて「新石州流」と名乗ったと伝えられています。
- 古石州(こせきしゅう)流
古石州流は、江戸時代中期から後期の武士であり茶人であった本庄宗尹(ほんじょう そういん)が始めた流派です。
新石州流が「新しい流れを取り入れたもの」ということに対し、「直系の流れを伝えるもの」として古石州流と名乗っています。
- 不昧(ふまい)流
不昧流は、江戸時代後期の大名で出雲国松江藩7代藩主の松平治郷(まつだいらはるさと)によって始められた流派です。
茶人としての号は、松平不昧(まつだいらふまい)で知られ、石州流の流れを汲みつつ、独自の文化や茶風を持っています。
- 宗和(そうわ)流
宗和流は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将である金森重近(かなもりしげちか)によって始められた流派です。
茶人としては、宗和(そうわ)の号で知られ、織部流、道安流、遠州流の三つの流れを汲んでいます。
三千家以外の流派4.久田(ひさだ)流(半床庵)
久田流は、高倉久田(たかくらひさだ)流と、両替町久田(りょうがえまちひさだ)流に分かれます。
高倉久田流は、表千家の親族であり、表千家の茶道を継承しています。
両替町久田流は、高倉久田流の開祖の息子である房政(ふさまさ)が、新しく立上げて開祖となったとされています。
三千家以外の流派5.有楽(うらく)流
有楽流は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名である織田長益(おだながます)が始めた流派です。
茶人の号は「有楽・如庵」(うらく・じょあん)で、千利休に茶道を学び、利休十哲(千利休の高弟を指す言葉)の一人にも数えられます。
三千家以外の流派6.織部(おりべ)流
織部流は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名である古田重然(ふるたしげなり)が始めた流派です。
一般的には、茶人の号である古田織部(ふるたおりべ)で知られていて、千利休とともに茶の湯を大成しました。
織部流は、武家茶道として派手さが好まれるという特徴があります。
三千家以外の流派7.上田宗箇(そうこ)流
上田宗箇流は、安土桃山時代の武将であり、江戸時代前期には浅野家の家老を務めた上田重安(うえだしげやす)が始めた流派です。
「関ヶ原の闘い」の後、剃髪して宗箇(そうこ)と名乗ったことから、上田宗箇(うえだ そうこ)の名が知られています。
上田宗箇流は、袱紗(ふくさ=贈り物の金品などを、包んだり覆うのに使う方形の布)を左に着けたり、お点前の男女の区別がはっきりしている、といった特徴を持ちます。
三千家以外の流派8.南坊(なんぼう)流
南坊流は、江戸時代の茶人で、福岡藩の家老であった立花実山(たちばなじつざん)が始めた流派です。
実山は、『南方録(なんぽうろく)』を書いたとする南坊宗啓(そうけい)の茶法を、千利休の正しい系統の茶とみなして『南坊流』の名を付けたとされています。
そこから南坊流は、武家茶道でありながら、千利休の精神も取り入れている流派と言われます。
三千家以外の流派9.宗旦(そうたん)流系
宗旦流は、三千家を開いた宗左たちの父である、千宗旦(せんそうたん)が始めた流派です。
宗旦流には系統として、次の流派も存在します。
- 安楽庵(あんらくあん)流
- 普斎(ふさい)流
- 宗徧(そうへん)流
三千家以外の流派10.三斎(さんさい)流系
三斎流の系統は、戦国時代から江戸時代初期の武将・大名である細川忠興(ほそかわただおき)の細川三斎流が始まりです。
茶人としては、細川三斎(ほそかわさんさい)として知られ、利休七哲の一人に数えられます。
三斎流系には、次の流派が存在します。
- 三斎(さんさい)流
- 肥後古(ひごこ)流
- 小堀(こぼり)流
- 萱野(かやの)流
茶道の流派から、日本の歴史や文化を感じてみるのも面白い
茶道の流派を選ぶには、それぞれ伝統や特徴があることを知り「自分が茶道に何を求めているのか」を考えるのがおすすめです。
たとえば、お気軽な趣味としてなら裏千家の流派、日頃の心構えや所作を学びたいなら表千家や武者小路千家、といった具合です。
また、茶道の流派の知識から、日本の歴史や文化を感じてみるのも面白いものです。