関税自主権がないとどうなる?日本の産業を守る大事な制度

1911年に当時の外務大臣・小村寿太郎が回復した関税自主権は、現在も日本を守る重要な権利として重要な役割を果たしています。

関税自主権とは何か、関税自主権がないとどうなるのかについて解説します。

関税自主権とは

関税自主権とは
関税自主権とは、輸入品に対する関税を自主的に決定できる権利のことです。

輸入品にかける関税は輸入する国の収入となりますから、関税を高くすれば国にとっては大きな利益となります。

また、輸入品が国内商品よりも安い場合は、大量に輸入すると国内業者だけでなく産業自体を脅かすことになる恐れがあります。

国内の業者を守るためにも、あえて関税を高くして、輸入品が国内品と比べて安くなり過ぎないようにバランスを取ることができるでしょう。

反対に、関税を安く設定することで国内の産業や消費を活発にすることも可能です。

競合品がなく海外からの輸入に頼る原料や製品を低い関税で輸入すれば、中小の製造業者は低価格で原料を仕入れることができ、一般消費者も日用品や食料品を安価に手に入れられるようになります。

関税自主権がない場合

関税自主権がないと、自国への輸入品に対して関税を自由に設定できません。

例えば、輸入品のほうが国内品よりも明らかに価格が安い製品に関しても、関税を輸入国が自由に設定できないなら、安い価格のまま仕入れてしまうことになります。

質に大きな差がないのなら国内品の売上が落ち、製造業者に大打撃を与え、場合によっては失業者が大量に増える恐れもあります。

関税自主権がない国との取引は、海外の輸出業者にとっては大いにうまみのあるトレードとなります。

自国の市場でこれ以上需要が望めない頭打ち状態にある製品であっても、需要が高く関税がないあるいは低い国があるのなら、輸出して巨大な利益を得ることが可能だからです。

つまり、関税自主権がないと、国内の産業を守れなくなります。

関税自主権を持つことは、国内の産業を保護し、国民の生活を安定させるためには欠かせないことなのです。

日本に関税自主権がなかった時代

日本に関税自主権がなかった時代

関税自主権とは、本来ならばすべての国が持つ当然の権利です。

自国に入ってくる輸入品に対して関税をかけ、国の財源にすると同時に自国の産業や国民の生活を守ります。

江戸時代の日本は鎖国状態にありましたが、一部の国々とは貿易をしていました。

特定の国と不平等な条約を結んでいるわけではなかったため、貿易によって一方的な不利益を被るということもありませんでした。

しかし、1858年、安政の五ヶ国条約が結ばれたことで、日本は関税自主権を失いました。

諸外国にとっては輸出しやすい国、利益を出しやすい国となりましたが、日本国民の生活は不安定になり、貿易による損失を被り続けることになったのです。

1911年に小村寿太郎が条約改正に成功して関税自主権を回復するまで、貿易における不平等な状態は続きました。

安政の五ヶ国条約

安政の五ヶ国条約とは、1858年に結ばれた条約をまとめた総称です。

最初はアメリカと日米修好通商条約を結び、その後、オランダと日蘭修好通商条約、ロシアと日露修好通商条約、イギリスと日英修好通商条約、フランスと日仏修好通商条約を結びました。

五ヶ国条約では、下田と函館に加えて神奈川と新潟、兵庫、長崎の港を開港すること、条約締結国の領事裁判権を認めること、そして、関税自主権を放棄することなどが定められました。

五ヶ国条約が締結されるまでの輸入品に対する関税は約20%でしたが、関税自主権を失ったことで輸入品に対する税率は5%に激減しました。

安い輸入品が大量に入ってくることで日本の経済は大きく傾き、国民の暮らしはダメージを受けるようになったのです。

なお、領事裁判権とは、日本に居る外国人をその国の法律で裁く権利を指します。

五ヶ国条約を締結した当時は日本には明文化された法律がなかったため、領事裁判権を諸外国が保有することは、特に不平等な意味合いを持ちませんでした。

関税自主権の回復

関税自主権の回復

輸入品に対する関税が5%になったことで、諸外国の安い製品が大量に日本に入ってくるようになりました。

とりわけイギリスで生産された安価な綿製品が大量に輸入されると、日本の産業は大打撃を受け、日本各地で生活苦を原因とした一揆が頻発するようになったのです。

日本経済を安定させるためには、関税自主権を回復することが欠かせません。

しかし、いきなり「関税自主権を回復したい」と言っても交渉を成立させることは困難です。

そこで日本は日露戦争に勝った1905年以降、世界における日本の地位向上をきっかけに、五ヶ国条約を締結した国々との交渉を進めていきました。

日露通商航海条約

ロシアとの間に結んだ不平等条約である日露修好通商条約は、1895年に結ばれた日露通商航海条約によってすべて無効になりました。

しかし、日本とロシアの間には関税自主権以外の問題、朝鮮半島と満州の利権争いが持ち上がり、1904年に日露戦争が始まります。

日露戦争は、1905年5月、日本海におけるバルチック艦隊撃滅により日本が有利な状態で終戦を迎えました。

同年7月にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領を仲介者としてポーツマス条約(日露講和条約)が結ばれ、日本は朝鮮半島における優越権と満州の租借権を得、国際的な地位を向上させることになりました。

日米通商航海条約

ロシアの次に日本が関税自主権を回復したのはアメリカです。

当時の外務大臣、小村寿太郎は関税自主権の回復を含めた条約締結の交渉を進め、1911年、日米通商航海条約を締結します。

同年、同じく関税自主権の回復を含めた日英通商航海条約と日仏通商航海条約、翌1912年には日蘭通商航海条約を締結しました。

半世紀以上もの時を経て、ようやく日本は関税自主権を回復できたのです。

小村寿太郎について

小村寿太郎について

小村寿太郎は1855年、宮崎県(当時は日向国)に飫肥藩藩士の子として生まれました。

1870年には藩の要請に応じて長崎で英語を学び、藩から推薦を受け東京大学の前身である大学南校に入学します。

また、第一回文部省海外留学生に選ばれ、アメリカのハーバード大学で法律を学びました。

帰国後は司法省へ入省し、その後、外務省で働くようになります。

1901年には外務大臣に就任し、日英同盟やポーツマス条約の締結に尽力しました。

関税自主権によって国内産業は守られる

関税自主権は初めからあった権利ではありません。

何十万人という国民が犠牲になった日露戦争を経て、また、小村寿太郎を筆頭とする日本の頭脳が困難な交渉を重ねたうえで手にした権利です。

後世の私たちは、関税自主権の大切さと関税自主権によって国内産業が守られているという事実を深く理解する必要があるでしょう。